手に入れようと伸ばす手は、多分むなしく空を切るだけ。
そこへ行こうと近づけば、途端に失ってしまうようなそんな世界。




水深一メートルの世界




「あら、ごきげんよう、江利子」
「ごきげんよう。…今日は蓉子だけ?」

久しぶりに薔薇の館に来たというのに、そこにいるのは蓉子一人。
祐巳ちゃんや由乃ちゃんでもいればよかったのに。

「何だか不満そうね。私一人じゃ何か問題でも?」
「いいえ、別に」

言ったところで何も変わらないからあえて言わない。

「ねえ、何してるの?」
「何って、今度試験のある大学の過去問だけど…?」
「薔薇の館に来てまで勉強?」
「みんなが来るまでの退屈しのぎよ」

蓉子は、視線を落としたまま手を止めもせずに、言った。

『みんなが来るまでの退屈しのぎ』

何よ、それ。私一人じゃ役不足だとでもいうんだろうか。

「退屈しのぎなら私の相手でもしてよ。私だって退屈だわ」
「相手…って、何をすれば良いの?」
「とりあえず話をしましょう」
「…分かった」

言いながらノートを閉じた蓉子はようやく顔をあげた。
少し根を詰めすぎなんじゃないだろうか、心無し顔色が良くない。

「で?どんな話をするの?」
「…蓉子は、プールの底に潜って空を見たこと、ある?」

私は今、生き生きした表情をしているのかもしれない。
蓉子の表情がそう言っているように見えた。

「そうね、最近は覚えがないけれど、小学生の頃なんかはよくやっていたかも。
空が揺れていて綺麗よね」
「ええ、そうね」
「それで?それが何なの?」

興味津々といった感じで聞いてくる。
『退屈しのぎ』は、あっと言う間に一番の関心事に変わっていた。

「その世界を手に入れるには、どうすればいいと思う?」
「その世界を、手に入れるには…?」
「そう。頭上に広がる美しいその世界を自分のモノにするには、一体どうすれば良いのかしら」

お茶を飲んでしばらく蓉子は黙っていた。考え込む姿も美しいと思ってしまうのは私のひいき目だろうか。

「分かったわ、江利子」
「あら、随分と早いわね」

もう少し横顔を眺めていたかったのに…残念。

「それで?紅薔薇さまのお答えは?」
「あなたも意地の悪い質問をするわね。答えは、『手に入れることは出来ない』でしょう?」

そう嬉々として言う。
ありがたいことに、その答えは私が第一に望むものだった。
悩んでいるうちにみんなが来てしまったら意味がないもの。

「どうして、そう思ったの?」
「だって、その世界は『水の底から眺めている水上の世界』なんでしょう?
手に入れようとして、手を伸ばしたとしても、何も掴めないわ」

揺るがない視線。蓉子は、私の瞳を真っ直ぐに見つめながら答えた。
望む答えのはずが、何故か訳もなく悔しくなる。

「そうよ。どうやったって、その世界を手に入れることは出来ないの。
水面を境にして、あっちとこっち、互いに相容れない存在なのかもしれないわね。」

美しいその世界にどんなに恋い焦がれても、手に入れることは決して出来ない。
せめて近づこうとその距離を縮めても、水面を越えてしまえば途端に失ってしまう。
結局は、水の底から見つめ続けることしか出来ないのだ。

「面白いくらいに、似ているじゃない」
「え、何か言った?」
「いいえ、何も。それより、お茶が冷めてしまったでしょう?淹れなおすわね」

二人分のカップを持って流しに向かう。
その途中でもう一言だけ、小さな声で呟いた。

「私にとってあなたは、水深一メートルから見る世界そのものなのよ」


今日も私は、この水底からあなたを見つめる。



あとがき
私の脳内では、江利子さまは蓉子さまに密かに恋してます。
でも蓉子さまは聖さまのことが好きなのです。三角関係。

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